アーサナとは
ヨガのポーズのことです。坐法とか体位などと言われたりします。
アーサナがうまくなるための心得
どうやったらアーサナがうまくなるのか?その心得とは
端的に言えば、肉体の使い方がうまくなれば、アーサナもうまくなります。
じゃあ、どうやって肉体の使い方がうまくなるの?っていったらアーサナをすればいいです。
アーサナをやれば肉体の使い方がうまくなって、アーサナもうまくなります。
つまりやればいいんです。
実践!実践!実践!
ですが、、、指導して思うことがあります。どうやら、ある程度までいくと壁にぶつかるようです。
そこで、その壁をどのようにぶち壊すかということをお伝えしていきたいと思います。
やらなきゃうまくならないんですが、どういった意図を持って行うかということが重要になってきます。
そういったことを筋トレの法則が的確に示しています。
やればうまくなる。というのは特異性の法則で言い合わらされています。
特異性の法則とは、簡単に言えば、野球がうまくなりたいならサッカーやらないで野球やれってことです。早く走りたいなら、腕を鍛えないで脚を鍛えろ。体力つけたいなら100メートル10本走るより、1kmを1本走れってことです。パフォーマンスを上げたい動作に似合った行動をとる必要があります。
そして次に壁をぶち壊す法則がこちら
意識性の法則
「なぜトレーニングをするのか」「どの筋肉を使っているのか」などの自分で意義をもって実施することが大事ですよって法則です。自分で意味があると思ってないと効果が上がりにくいんですね。
他にも、過負荷の法則、漸進性の法則、個別性の法則、全面性の法則、反復性の法則があります。
【フィットネス用語】備忘録
アーサナの質
アーサナの質とは、2つ要素によって決まります。意思と意図です。
アーサナをとろうとする意思があること。しっかりと意図をもって行っていること。
意思とは、何かをやる時のもとになる気持ち。もとの気持ちとは動機つまり出発地点です。
意図とは、何かをしよう、こうしようと考えることであり、目指していることです。出発地点からどのように目的地にたどり着くかを考えることです。
どうしてそのアーサナに至ったか明確な考えがあるかが重要になります。
SHINGO(慎悟)は各アーサナに与えられた条件をクリアしつつも、サマスティティヒ(基本姿勢)を維持するという意図をもってアーサナをとっています。なぜそういう意図を持っているかというと、サマスティティヒを指標に定めているからです。
アシュタンガは、サマスティティヒに始まり、サマスティティヒに終わります。いつもサマスティティヒに戻ってきます。身体が立ち返る場所それがサマスティティヒなんです。そう思っています。
先生!これであってますか?
みなさんは、このアーサナがどうしてもできないと思ったことはありませんか?
何のためにやるのか?何が正しくて何が間違ってるのかわからなくなったことありませんか?
「先生!これであってますか?」って先生に聞いても「ヨガには正しいとか間違ってるとか無いんだよ」「アーサナはそれほど重要ではなないから」「執着しないで」「ありのままで」って言われて結局わからないまま。。。
そんなこともあると思います。
「先生!これであってますか?」って聞く心理状態って、間違ってたらどうしようとか、これが正しいんだとか、そういうことじゃなくて、先生の指導したいアーサナの基準内にいますかってことです。そのアーサナの基準って生徒が持ってるんじゃなくて先生が持ってるから、先生に聞くしかないんですよね。生徒は基準なんてものは持ち合わせない。だからこその「先生!これであってますか?」という言葉がでるんです。自己判断する要素を持っていないのに、持ってるはずの人にズレたこと言われると、もうお手上げです。
やっぱりアーサナにも基準があるんです。そこを生徒は「あってるか?」ときいてるだけでなんです。私のアーサナは先生のヨガの観点での基準に則していますか?ということです。
しかしながら、これがアーサナで、これが体操でというような明確な線引きすら先生の内側でもされてない場合があります。アーサナは、ヨーガ・スートラ(ヨガの教科書みたいなのもの)で定義されていますが、そんな受け売りでどうにかなるものではありません。
だから、指導する側も分からなかったりします。生徒がアーサナのことを知りたいというなら、先生もアーサナというフィールドに立って伝えなければなりません。そこに先生が勉強したヨガ哲学という観点を持ち込んでも、相手は受け入れることはほぼありません。
ここからは、SHINGO(慎悟)のアーサナに対するスタンスをはっきりとみなさんにお伝えしたいと思います。
アーサナを定義する
アーサナはカタチです。カタチは空っぽです。なんの意味もありません。カタチに命を吹きみ、何故それを行うのか意味を見出すのは自分自身です。アーサナが体操か、そうでないかを決めるのは自分の心の内にしかありません。「これがヨガです」と教えられるものは決して、あなたにとってヨガではありません。それが、呼吸法だろうと瞑想法だろうと哲学だとしても、学ぶことはカタチとしてしか習得できないからです。知識として学習してもそれは情報でしかなく、それもただのカタチです。「マナブ」は「マネブ」真似事です。しかし、あなたが体験(真似る)して、感じて、思った事だけは本物です。それがあるかどうか。それだけです。
アーサナはカタチでしかない。
これがSHINGO(慎悟)のスタンスです。そこに意義を見出すのは各々どうぞ。
・健康になりたいからアーサナをとる
・キレイになりたいからアーサナをとる
・楽しいからアーサナをとる
・修行だからアーサナをとる
どれもアリということです。
アーサナの基準とは
アーサナをとるにあたって基準があります。
・アシュタンガの伝統を重んじる
・怪我をしないようにする
・解剖学をもとに動く
どの観点でアーサナをとるかでカタチが変化します。
解剖学的見地から言うと伝統的なものは怪我の原因になることもあります。
SHINGO(慎悟)はサマスティティヒ(基本の姿勢)から条件付けられたものがアーサナであるという観点で見ています。
アーサナには条件がありますが、たとえばトリコーナ―サナで考えてみましょう。
■トリコーナーサナの条件
・脚は開脚の状態
・足を右に向ける(右側の場合)
・股関節の外転で身体を床に向かって倒す
・足の親指を右手で掴む
・左手を天井に伸ばす
これでトリコナーサナというものになるということです。
そして、この条件以外の体のパーツはサマスティティヒに準ずるべき。という考えです。
よって
・背骨はサマスティティヒと同じくまっすぐ
・頭はサマスティティヒと同じく骨盤の延長上にある
・前額面上で動く
ということになります。背骨が曲がっているようであれば、上記の条件から外れないように調整を促します。
また、アシュタンガルール(伝統)から逸脱することも望ましいと思いません。
伝統を重んじつつ怪我しないように、解剖学の観点からもみる。その割合がどうか。
条件付けられたものをいかにクリアしていくかということがアーサナの醍醐味だと思います。
SHINGO(慎悟)が、指導する際のチェック項目
□アーサナの中にサマスティティヒを維持できてるか
□アシュタンガの伝統から逸脱してないか
□怪我をしないようにしているか
□解剖学をもとに動いているか
「先生!これであってますか?」と聞かれたら、この項目をもとにお話しをさせていただきますね!